永久暇人と究極的自由論
※注意:今回の記事の文中に一部不適切な発言がありますが、あくまで客観的、論理的に述べているだけです。犯罪行為に対しての私の思考は、およそ一般的なものなのであしからずちょっと今回は短いながらも真面目に語ろうと思います。
表題は―自由について
永久暇人と究極的自由論
例えば休日。街を散歩すること。
休日に散歩しようがそれはその人の"自由"ですが、それは完全な自由でしょうか?
私は自由ではないと思います
例えば散歩をするということは、当然体を動かすということなので、疲労しますよね?
つまり、それは"疲労する"という代償を支払うからこそ"散歩する"という自由があるわけです
例えば買い物。たくさんのお金を持っていて何を買うのも自由。
だがそれも結局お金を支払うからこそ得る"自由"です
例えば車の免許。
公道で合法的に車を運転できる"自由"とは、免許を取得したからこそ得る"自由"です
逆に免許を取得していない人が公道で運転する"自由"は、"法的制裁"の対象になるからこその自由です。
例えば殺人。
"何故人を殺してはいけないのか?"そんな問いが一時期流行りましたが、
人を殺してはいけないのでしょうか?
それはある意味、"個人の自由"だと思います。
確かに日本人が殺人を犯せば刑法によって裁かれますが、よく考えてみてください
裏を返せばそれは、"裁かれる"という制約を受け入れているのなら殺人をするのは自由じゃありませんか?
店でタバコを買うのと同じで、一種の取引なんです
"タバコを受け取る"ということと"金銭を支払う"ということ
"殺人を犯す"ということと"裁かれる"ということ
どちらも社会的善悪を無視してその行為のみを客観的に捉えた場合、どちらも同種の行為なんです
他の犯罪行為もそうです、それらは皆、一種の取引なんです
例えば、憲法で保障されている数多ある自由。
それらは全て、"日本国民である"もしくは"法定の対象である"ことが絶対の前提です
国際規約や条約もそうです
"批准している国の国民である"ことが前提です
つまり・・・"自由を得るためには必ず何らかの代償が必要であり、代償の無い《完全な自由》は存在しない"ということになります
ここで客観的観点からの究極的に述べると
《完全な自由》は存在しませんが、例えば"不完全な自由も自由"と定義したとしましょう
すると、あらゆることが自由だということになります
散歩や睡眠から殺人や強盗まで
逆に"不完全な自由は自由ではない"と定義したとしましょう
すると、あらゆることは自由ではないということになります
呼吸すら体という束縛から逃れられません
つまり、自由であるかそうでないかということは、あくまでも"個人の定義"によるということです
ここからちょっと補足をしておきます
人は良く、例えば呼吸をするのは自由で、殺人をするのは自由ではないという定義をしています
おそらく他者に影響を与える自由は自由ではないという定義なのでしょう
ですが例えば表現の自由はどうでしょう?
よくゴシップ誌では個人のプライベートを掲載していてもあくまで表現の自由を主張しますが
それは完全に他者に影響を与えています
これは"他者に影響を与える自由は自由ではない"ということに矛盾してます
他者に影響を与えない自由・・・・そんなものが存在するとは、私には思えません
極ミクロな世界では存在するだけで、周囲に何らかの影響を与えています
人が何らかの自由を行使するとき、必ず何らかの影響を周囲に与えています
簡単に言えばバタフライ・エフェクトのようなものです
